2011年3月17日木曜日

偽善に関する短い考察。

善意は、ある。
悪意も、ある。
偽善は善意を装った悪意だ。

だが昨今用いられる偽善は
「善意を表明する事で社会的に貶められるのではないか」という恐怖を指す。
もっと大きい善がある、私の善は小さいのだから表明したら比べられ、貶められるのではと。

だがこの点から鑑みて、『善意は数値化できる』と考える人がいるのだろう。
それが具体的な金額なのか、デジタルな0と1なのかはともかく、数値化して判断されている。

悪意はどうだろう。
悪意は数値化できないのだろうか。
悪意は自発的に定義されるのではなく社会的に定義されるものなのかもしれないが。





仮に悪意も数値化して考えるのであれば、
【善意>悪意】であるなら、それでいい。


偽善とは善意と悪意の一体化したもので、
その内訳、内部比率によって社会はこれを偽善と呼ぶ。
自らを偽善と称する行為は、この善悪の比率において相当程度善意が大きいようだ。
なぜなら売名行為や「本心ではそんなに思いはない」などに含まれる悪意は、
実際に貢献する善意に比べてかなり小さなものだからだ。

それを偽善と自称することは、前述のとおり貶められるのを防ぐ手段であっていい。
貶められると考える人への処方箋は【善悪レシオ】なのではないか。